本来、武術は単に体術を使って身を護るだけに使うものではなく、社会を生き抜くことに役立つものでなければいけません。それがルールの無い戦いです。ルールが無い以上格闘に限定されることはありません。そのために最も腐心すべきは、人間関係を円滑に保つことであると考えられます。人間関係を円滑に保つためには、コミュニケーション力を身に付ける必要があります。
人の命が今ほど重くなかった時代であれば、「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」として体術や武器術で撃退することこそが武術であり、護身術とされていたであろうと思います。
しかし、法律が整備されている現代社会においては、襲われたからと言って、格闘技や武器術で襲撃者を撃退した場合、襲撃された被害者であったはずなのに加害者になってしまったなどということが当然のように起こり得ます。
やられたからやり返すという行為は、「正当防衛」としては認められないということです。
これは体術や武器術の使用には十分な注意が求められるということです。そして、使用だけに限らず、護身グッズの携帯についても、法に抵触する危険もあるのです。
護身の本質に気が付かないと、「武術や護身術は身を護るために実力行使すること」と考えがちになります。
例えば、路上強盗に襲われたときには反撃するのは当然である、という考えを持つ人もいらっしゃると思います。そこには、正当防衛という考えが働いています。
刑法における正当防衛が成立するためには、
①急迫不正の侵害に対して
②自己または他人の権利を防衛するために、
③やむを得ずにした行為
であることが少なくとも必要になります。
①の急迫不正の侵害とは、不正な差し迫った攻撃を意味します。
いざこざや激しい喧嘩では、正当防衛は原則として成立しないとされています。言い争いが継続しているほど、「差し迫った攻撃」があるとは認められないからです。
襲撃者の攻撃のタイミングを見計らって、隠し持っていた護身用具や周囲にあるものを使って撃退することも認められていません。タイミングを見計らっている時点で差し迫った攻撃とみなされず、あなたの反撃は「過剰防衛」とみなされてしまいます。
次に
②自己または他人の権利を防衛するために、
③やむを得ずにした行為
についてですが、路上強盗に襲われたからと言って、それだけで護身術や護身用具の使用が認められるわけでもありません。
つまり、襲われたからと言って、反撃のためには何をしても良いという理屈は通用しないということです。「正当防衛」では、自己または他人の権利を防衛するために必要最小限度のものに限定されるのです。
過去の判例においては、路上強盗が素手で襲ってきたのに対して、特殊警棒やナイフでの反撃は過剰防衛とみなされているようです。武道の有段者が一般人に対して、その技を用いた時も同じように扱われるので十分に注意が必要です。
技の有効性についても、体術のみで身を護るという考えは非常に危険です。
例えば、自分以外に100人の生徒がいる教室で護身術を学び、教室の100人には完璧に技を掛けることができるというレベルになったとします。新しく入会してきた101人目の人に自分の技が絶対に掛かると誰が言いきれるでしょうか。
体術は実際にやってみなければわからないという要素が非常の大きいのです。だからこそ格闘技という競技が成り立っていると言ってもいいでしょう。
命がかかってくる可能性の大きい護身というシチュエーションで、やってみなければわからないとは選択すべき項目としては重要度がかなり低いものであると言えます。
現代武術は襲撃者と戦うことだけが全てではないのです。
考えるべき大切なことは、身に迫る危険をどのように避けるか、そして、回避できなかったときは、どのように窮地を脱すればよいのか、ということ。
もちろん、体術や武器術も大切です。「生か、死か、まさに二者択一」などという状況下においては、体術を使ってその場をしのぐことができなければいけないでしょう。大切なことは、十分な知識を蓄え、安全で適切な使用に心掛けることにより、より高度な護身を実現することができます。逆に無知のままで使用すれば、自分自身の安全を脅かすものとなってしまうということです。護身術や護身用具を使って、襲撃者を撃退できても、それが必ずしも「正当防衛」に該当するとも限らないという点を十分理解しておくことが大切です。
捌術研究会で研究している現代武術は、犯罪者から身を護るだけに使うものではなく、応用することで、身近な人間とのコミュニケーションを円滑に保つことにも役立てられることを目指しています。